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中国四国地方環境事務所

アクティブ・レンジャー日記 [中国四国地区]

大山歴史巡り~豪円山~

2008年09月19日
米子
 大山の玄関口、博労座続きの東側の山はかつて呼瀧山と呼ばれていました。しかし、現在では呼瀧山と言っても地元の大人でも分からないほどあまり知られていないそうです。実はこの呼瀧山、いまで言う豪円山のことです。豪円山は標高892mで、山頂まで10分弱程度で登ることのできる山です。スキー場や野営場もあり様々なシーズンで多くの人に利用されています。
 豪円山には北側の一部斜面に、いまでもわずかに滝の流れがあり、この滝は往年はその瀑音が山野にこだまし、このことからこの山を呼瀧山と呼んでいたそうです。ではなぜ豪円山と呼ぶようになったのでしょうか?
 呼瀧山が豪円山と呼ばれるようになったのは慶長16年(西暦1611年)以降で、大山寺中興の祖である豪円僧正の墓所となってからその功績をたたえて名付けられたそうです。山頂に続く道の傍らには豪円僧正を中興の第一世として第二世から第八世までのお墓(世代墓)があり、山頂には豪円地蔵がまつられています。ちなみに大山は聖域とされていたため実際に遺体は埋葬されずこの場所にある墓は詣り墓とよばれるものです。
 豪円僧正が葬られたことで呼瀧山から呼び名が変わった豪円山ですが、豪円僧正がなぜこの地に葬られたかというと、それにはある伝説が残っています。

 かつて米子城主が行った検地が、徳川家康より三千石の寺領安堵のお墨付きを受けていた大山寺領にまで及んだことに怒った豪円僧正がその死を前に、

「吾を葬るには須(すべから)く米子城を俯瞰(ふかん)すべき地に於てせよ 吾必ず異日米子城の没落を見せよう」

と遺言したので米子城を望むこの地に葬り、その3年後に米子城主中村一忠が20歳の若さで頓死し米子城主中村家は断絶になった、という伝説です。


◎山頂にある豪円地蔵
 この豪円地蔵の視線の先には米子市街が・・・

 このようなちょっと怖い伝説の残る豪円山ですが南斜面から見る大山の眺望はすばらしく、大山でも景勝地の一つです。気軽に行くことのできる場所なので、是非ここから見える大山と豪円地蔵を見てもらえればと思います。